妊娠出産、性加害や性的搾取、被差別的な立場、媚びや弁え(わきまえ)を武器に生き延びること……既出作でも問うてきた「女性であることの不条理」を、村田沙耶香さんは本書でも、社会構造や価値観や人々の意識の変化を活写しながら浮かび上がらせている。
『世界99』の主人公は、「性格」というものがなく、目の前の相手や周囲に合わせて、キャラクターを意識的に「分裂」させていく如月空子(きさらぎそらこ)。「孵化」(『生命式』に所収)という短編の主人公・髙橋ハルカの存在が、空子の造型のヒントだという。
「ハルカも、幼なじみや学校、バイト先などコミュニティごとに自分を〈呼応〉させていく女性でした。私自身もコミュニティに合わせてキャラを変えるところはあったので、そういう人に親近感もありました。いわばコアがない人に、今度は長編で向き合ってみたかったんです。たとえば、オレンジジュースの入ったコップにコーヒーを少しずつ入れていけば、どんどんオレンジジュースとは違うものになっていく。いつの間にかコーヒーが濃くなるけれど、それでも最後にできあがるのはコーヒーとは違う何かです。最近のインタビューでもよく話していますが、自分とは、人間とは、そういう容れ物のような存在なのではないかというイメージを持つようになったんです。加えて、所属しているコミュニティは、どれもその人にとって世界そのものだけれど、その世界もまた分裂しているという感覚も書きたい。そんなことを、連載を始める前に考えていました」
ファンには既知のことかもしれないが、村田さんは執筆の準備として、主人公の似顔絵などを描いてイメージを固めることから始めるらしい。
「空子の感じは割と早くに決まって、それから幼なじみの白藤(しらふじ)さんを描き、空子が飼うピョコルンの絵を描き、世界の分断図みたいなものもメモして……と、進めました。実はこれが初めての連載だったので不安で、ある程度完成させておかないとと、集英社さんに通って書いていたんです。掲載するときにはもう少し整えようと思いながら荒く書き進めていったら、第二章の真ん中くらいまで来たときにラストが見えた気がしました。そこから連載を始めたのですが、掲載前に原稿を見直すと1回1回が細胞みたいにブワーっと膨れて、最初とは違う話にずれていって終わりが見えなくなり……。私は死ぬまでこの作品を書き続けることになるのかなと恐ろしく思ったこともありました(笑)」
自分も加害側に回るかもしれないという怖さ
第一章で空子が暮らすのは、過去のない「クリーン・タウン」という新興住宅地だ。過去がないということは土地に由来するような差別を生む土壌ではないはずなのに、〈ラロロリンDNA〉を持つ人や、〈シタガイコク〉にルーツがある人に対して、人々は容赦がない。空子の父親は仕事でほぼ不在で、家には母とペットのピョコルンがいる。ピョコルンのような〈強制的に可愛い〉生き物を飼うのは、空子にとって、「可愛がらないと許さない」という周囲からの圧力を感じることでもあった。
「夏休みに田舎に遊びに行くと、小学生のころから大人たちが『あの子は骨盤がちゃんと広がってるから安産型だ』『沙耶香はお見合い写真どうする?』というような話をしていて、幼いなりに苦しかった記憶があります。ここでは誰がどう繁殖するかをこの人たちが決めるんだ、とぞわぞわしていました。自分が浴びせられてきた視線や言葉……自分の子宮が見張られていた経験が記憶の根源にあります。良いことを話しているかのような言葉を使いながら、家畜っぽく扱われているという感覚です。そんな経験があったので、ヒエラルキーの一番下に置かれる生き物を作ってみたかったんだと思います」
だが、当初作中で可愛がられ、世話されているだけだったピョコルンは、やがて男たちの性欲処理、妊娠出産、できる範囲での育児や介護などのケア労働を担うようになる。そんな価値観の変化が、第二章以降に加速する。
「専門的な用語はわからないのですが、心の中で『だったらいいな論法』と呼んでる考え方があるんですね。都合の悪い真実はあまり目に入らなくて、『こうだったらいいな』と思えそうなデータばかり集めて安心したいという感覚です。作中でも空子は、それまで女性たちが背負ってきた負担をピョコルンにやらせていることに呵責(かしゃく)めいたものを覚えますが、やはり「ピョコルンはそれが幸せなんだ」という情報を鵜呑みにして、だからこれでいいんだ、と自分が楽できる道を選んでしまう。さっきの話で言えば、私も、自分は見張る側にならないとは断言できない。ピョコルンが置かれた現実を都合よく受け取りかねない。加害側になるなんて簡単なんだな、その芽は自分にもあるのかもしれないなと気づいて怖かったです」
第二章の空子は、その場その場にふさわしいふるまいを〈トレース〉し、他者に〈呼応〉して生きる術をさらに磨き、〈三種類の世界〉を自在に行き来している。閉じられた価値観を共有する地元コミュニティで構成されている〈世界①〉、トレンドやブームに目がなく常にポジティブであろうとする人たちが集う〈世界②〉、〈正しく生きようとすることに懸命〉で、そのために情報を更新し続ける人々が連帯している〈世界③〉だ。
「世界は6つも7つも考えてみたのですがキリがなく、3つくらいを入念に書いた方が生々しくていいかなと絞ってみました。自分にとって身近で解像度が高いのは世界③です。世界②は、『信仰』(表題作)という短編を書いたときに主人公の永岡ミキのセレブっぽい友人たちのイメージです。彼女たちが縄文土器にしか見えないお皿のブランド「ロンババロンティック」に夢中になっていて、それをミキが『原価いくらだよ』と毒づく場面を書いたとき、なんか楽しかったんです。それを思い出して書いてしまいました(笑)。世界①は、子どものころからの友達や学生時代までの地元の友人のイメージ。久しぶりに会って話したりすると、自分が普段よく話す世界③の人とはまったく違う世界の見え方に触れて、カルチャーショックとまではいかないけれど、結構びっくりするんです」
どう工夫しても、女性にとってのディストピア感が消えない
空子が49歳になった下巻の第三章では、世界は「恵まれた人」「クリーンな人」「かわいそうな人」という3層にカテゴライズされるようになり、かつて被差別対象だった〈ラロロリン人〉の多くが「恵まれた人」に属するなど、ヒエラルキーの逆転も起きる。「汚い感情」が忌避される世界は、本当に美しく公平になったのか。そして息を呑むカタルシスへ--。
「『消滅世界』の中では、出産は人間の女性がしてたんですけれど、本書ではピョコルンという生き物に任せられる。女性が救われる条件はさらに整えたのに、地獄さは増しました。生殖を巡る思考実験を何度繰り返しても、最後はディストピアになるのはなぜなんでしょう……」
安易にこう括ってはいけないと思う。それでも本書は、村田さんが連綿と書いてきたあらゆる作品とどこか地続きだ。現時点での小説家・村田沙耶香の集大成と呼びたい。
PROFILE プロフィール

村田沙耶香
むらた・さやか 1979年、千葉県生まれ。作家。2003年、「授乳」で群像新人文学賞(小説部門・優秀作)を受賞し、デビュー。’16年、『コンビニ人間』で芥川賞に輝くほか、著作、受賞作多数。
撮影:露木聡子
INFORMATION インフォメーション
村田沙耶香『世界99』上・下
文芸誌『すばる』誌上での3年以上にわたる連載を書籍化。上巻では主人公・如月空子の4歳から35歳、下巻では49歳以降が描かれる。集英社 各2420円